「綺麗事」が「本当に綺麗なこと」になる【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第21回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第21回
【できすぎ君は、単なる優等生か】
『ドラえもん』に登場する出来杉君は、たしかに優等生キャラである。しかし、この漫画が登場した当時、「優等生」は褒め言葉ではなかった。「できすぎ」という表現は、あまりに完璧すぎる見かけは、なにか裏の悪事や欠点があるという意味だ。多くの人がそう受け止めていた。「〜すぎる」とは、そのあとに、否定的な内容が来ることを示した。「できる」よりも、「できすぎ」は悪い意味になる。英語でも、「too」のあとに形容詞がくれば、そのあと「but」の否定が来ると相手に期待させる。続く言葉を噤んでも、お互いの共通認識として欠点が強調される。
ところが最近では、「〜すぎ」というのは、そういった否定的な裏のない表現として用いられている。「可愛すぎる」というのは、「とても可愛い」という強調であって、なにか欠点があるという示唆を含まない。特に若い人ほど、その意味に受け取るだろう。だから、「できすぎ」というのは、素直に「とてもできる」という意味になった。出来杉君は、こうして完璧な優等生になってしまった。
このように、現代の若い世代は、上の世代に比較して、「超」がつくほど素直なのである。他者の良い面を見て、素直に「凄いな」と感心する。なにか裏があって、上辺だけを繕っているとは受け取らない。
「優等生」と同じく、「お金持ち」も褒め言葉ではなかった。「エリート」も「高学歴」もそうだった。だから、実際にお金持ちや高学歴の人たちは、妬まれないように自分の属性を極力隠したものだ。
また、面と向かって褒められたときには、それを全面的に否定し、「とんでもない」「そんなことありません」と首を振り、謙遜するのが常識だった。たとえば、自分の子供を誰かから褒められたりしたら、慌てて否定し、実はこんな悪いところがある、問題ばかりで困っている、と子供の悪口を自分から話した。親たちのこのような発言を聞いていた子供たちは、落ち込んだのかというと、日頃から悪い点ばかり指摘されていたから、さほど気にしなかった。このようにして、身内を悪くいう習慣を自然に身につけたのだ。
今はその反対である。みんなが素直になって、良いものがあれば感心し、自分や家族の良いところは自慢し合う。お互いに褒め合って、癒し合っている。良いところを見つけて賞賛する、というキャンペーンが広がっているようだ。悪くない。良いことだと思う。
ただ、年配の人たちは、それを見て心配になるだろう。こんな綺麗事ばかりで大丈夫か。本音がわからない。にこにこしているけれど、あるとき突然きれてしまい、犯罪者になるような人が出るのではないか、などと不安を抱く。なにしろ、綺麗事は本心ではない、悪口をいったり聞いたりできる関係が大事だ、そういった否定的な意見こそが本音であり、本音を語らない人間は信頼できない、と頭に叩き込まれてきたからだ。
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〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。